土曜日に突然の訃報が届いた
奥さんのおじいちゃんが亡くなったということだった
亡くなったおじいちゃんは数年前に脳出血で半身不随になって以来
病院と施設を行き来するばかりで
最期には肺炎を患い息を引き取った
実を言うと僕は亡くなったおじいちゃんとは会った事が無く
孫の婿ということで出席していたが
お葬式で初めましてという複雑な心境ではあった
親族としてお葬式に出るという事も
もう10年以上なかったし
セレモニーホールで行なわれた立派な葬儀に戸惑う事も多かった
突然とは言っても
そうやって入院したり要介護の状態だったのだから
ある程度の覚悟や心の準備は出来ていたと思うし
享年85歳は長生きされたと思う
だから葬儀自体にお別れの悲しみは漂っていたけれど
悔やまれるような悲痛な悲しみは無かったと思う
ただひとつ悲しかったのは
おじいちゃんの長年連れ添ったおばあちゃんは
もう認知症で状況が何も理解出来ていなかったことだった
曹洞宗のお経は少し変わっていたが
亡くなったおじいさんとは同世代で
ずっと昔から付き合いがあったというお坊さんが
お経を読むのは心にしみる思いがした
人はいつか必ず死ぬのだけれど
その死への怖さを和らげたり紛らわしたりするために
いろんな宗教や葬儀なんかが生まれたんじゃないかと思う
だれもその故人の魂が仏の世界に旅立つ事を
見ることも確認することも出来ないのに
皆がそうなることをイメージして信じて
とても不思議なことなのだけど
それで心が安らぐのだ
そこへ導くのが僧侶の重要な役割であり
やっぱりそれは必要なのだなと思った
むかしから伝わる習慣などは
生活の様式も変わってどんどん薄れていく一方だけど
今それを知っても面白い事や興味深い事は沢山ある
そういうのは
田舎の不便でわずらわしい人間関係の生活のなかで
受け継がれるのだろうと思うし
それはそれで悪くない
それが生活するってことなんやろうと思う
とにかく長生きはしたいな